終わりに — 書ききれなかったことなど

こんなふうに、アラジンとデイジーは我が家にやってきて、そして去っていきました。

結局のところ、彼らと暮らしたことにどういう意味があったのか、まだ飼い主にはまとめきれていません。
先代ゴールデンレトリバー犬が亡くなって落胆した飼い主は、それでもあと10年ほどの精神的な安定がほしくて犬を迎え入れ、最終的には17年近くの年月を一緒に暮らしました。そんななか、毎日さまざまなことが起こり、彼らのちょっとしたしぐさや表情にいたるまで、小さな細かい記憶がたくさん残されました。

アラジンとデイジーのちょっとした表情、しぐさ、ご飯のたびにうれしくて跳ね回って大騒ぎをしたこと、
いつまでもいつまでも、際限なくじゃれあっていた二人。


間違って人間の薬を飲んでしまって大騒ぎしたこと、市販されている犬用ガムを食べた後で死んでしまうのではないかと思うほどひどい胃腸障害を起こしたこと、アラジンがときどき猫のような声で鳴いていたこと、デイジーが冷たい鼻で人間の足をツンとつつくのが好きだったこと、キッチンで作業しているとデイジーが入ってきて、群れをつくるオオカミのようにお尻をひたっとくっつけてきたこと。のんびりと昼寝したしたときのこと。

若いころに彼らが好んだ犬用のおもちゃのこと、みんなででかけたキャンプ場でデイジーが「おかーさーん」とでも言いたげに立ち上がっていたこと。

最晩年のデイジーが車で移動するときに、不思議そうに外の世界を眺めていたこと。

アラジンを迎えに行った日に聞いたトンビの鳴き声。そして、デイジーを我が家に迎えたとき、せっかくトリミングして来たのに車の移動でパニックになって吐しゃ物と糞尿まみれになったこと。老いたデイジーを病院につれていくときにコートをおしっこやウンチで汚されたこと、息をしなくなったデイジーを抱き上げた時にまだ膀胱にたまっていた温かいオシッコがこぼれてきて服を汚されたことなどなど、意味があるのかないのかわからないような数限りない記憶の断片が溢れてきます。

救急車のサイレンを聞けば、アラジンとデイジーが真剣に音のマネをして吠えていたことも思い出します。飼い主がフルートを吹けば、それに合わせて吠えたりもしました。つまりは、彼らは日なたの匂いがする日常そのものだったと思います。
こんな記憶はやがて薄れてしまうことでしょうし、飼い主の人生も決して永遠ではありません。
ただ、こうした記憶の断片をここにダラダラと書きつけておくだけでも、2頭が確かにこの世に存在していた証拠を残しておけるのではないかと思っています。
この広い世の中の片隅に存在していたアラジンとデイジーという小さな命のことを、ときどき思い出してやってください。

2018年2月、最期の日を迎えるまで

1日おきに新しい獣医さんで皮下輸液の注射を受けながらではありましたが、強力な止血剤を持ち歩き、実際に出血が止まっているという安心感から、2月の初めころから飼い主夫妻は毎日のようにデイジーをカートで公園に連れて行きました。おむつを付けて、カートにゆられてぼんやりしているデイジーでしたが、公園に入ると自分で歩きたがってカートを降りるということを繰り返しました。公園内や付近のドッグカフェも楽しみました。とくに2月7日には、公園内のお気に入りの場所をとてもうれしそうにスタスタと歩いていました。それは前の獣医さんに見放されかけた犬とは思えないほどでした。

また、夕方には元気になることが多く、自分から散歩を催促し、自宅から何ブロックかの短い散歩コースをカートなしで歩ききることができていました。この時点では、デイジーの介護は続くものの、もしかしたら桜の時期まで、さらにもしかしたら16歳の誕生日くらいまでデイジーはがんばってくれるのではないかと思ったりもしていました。
アラジン、デイジー時代の最後に、こうして2週間ほど毎日家族でデイジーと散歩したことは、ほんとうに良い思い出となりました。


しかし、2月14日には公園への行き帰りも含めてほとんどカートの力を借りずに歩いたデイジーが、翌日の15日には、公園とカフェでは元気にしていたものの、帰り道はほとんどカートで寝ている状態となり、夕方の散歩の時間になっても元気がありませんでした。いつもの1/3ほどの距離で散歩を切り上げて帰ることになりましたが、そのとき道端のガードレールによろけてぶつかったりもしました。今でも飼い主はその場所に差し掛かると、あのときに感じた胸騒ぎを思い出します。

この日の夜から、デイジーはそれまで何とかお団子にして食べていた介護食を食べられなくなりました。アラジンのときと違ったのは、シリンジを使えばなんとか水と液状のものを飲ませられるということだけでした。朝昼晩と、液状にした介護食を小分けにしてシリンジで強制給餌し、水を飲ませながら、飼い主はデイジーの最期が近いことを悟りました。
18日 カートで運び込んだ動物病院で、デイジーはいきなりオシッコを漏らし、抱きかかえていた飼い主のコートをまた汚しました。獣医の先生はデイジーを診察して、「脱水もあるし、舌の色もチアノーゼをおこしているように見える。もう長くないかもしれないから、入院するというよりは家に帰って、暖かいところで過ごし、よくなでて安心して過ごせるようにしてあげてください」と言いました。事実上、打つ手なしということでしょう。


21日 この日は、デイジーが我が家にやってきてちょうど15年目の記念日でした。この日を超えることができたのは、デイジーに生きる意欲があったからだと思います。獣医さんからほとんどもうダメと言われたのがうそのようで、家では少し立ち上がって歩くことができるまでに回復しました。


24日 デイジーはかなり元気になりました。家の中で立ち上がらせれば自分でお水を飲み、好きな場所に歩いていきました。夕方には庭に出て、夕日を浴びて数歩歩き、うれしそうにくるくると回っていました。このとき、写真を撮らなかったのが、後から考えれば悔やまれます。
25日 通院時、獣医さんが驚くほどデイジーは元気でした。
26日 この日から、またデイジーの体調が下向きになりました。食べ物、飲み物をあまり受け付けなくなり、立ち上がるのがおっくうになってきたようです。寝ているデイジーの目から、涙がこぼれたような気がしました。
27日 自力では立ち上がれないけれど、寝たきりになるのは嫌だったのでしょう、デイジーはずっと吠えていて、立ち上がって歩きたいと自己主張していました。
28日 デイジーは、未明から朝まで断続的に吠え続け、そのたびに飼い主は起こされて、デイジーを支えて寝室の中を歩かせてやる、という作業を続けていました。7時ごろにデイジーは静かになり、やっと眠りについたように見えました。そこで、飼い主も少し仮眠をとったのですが、8時過ぎころでしょうか、とりとめのない夢の中でどこかの子供がとても楽しそうに「きゃははははっ」と歓声を上げて空に向かって飛んでいくシーンが突然浮かんできて、ふと目を覚ますとデイジーの呼吸の音が聞こえなくなっていました。
触るとまだ体温があり、まるで眠っているかのようですが、心臓の音がしていません。


デイジーの最期はこんなふうにして訪れました。
苦しんだ様子がなかったことは幸いでした。また、夢の中での不思議なシーンは、おそらくデイジーが昇天するところを見たのだと思いますが、あんなに楽しそうなら死ぬのも怖くなかったんじゃないかな、と思いました。
その日の夕方、近くのお寺でお経をあげていただき、デイジーは荼毘に付されました。

2018年1月、デイジーが鼻血を出す

2018年は戌年で、年賀状には15歳を迎えたデイジーの写真を使うことができました。しかし、2017年の年末頃から使い始めた散歩用のカートの出番は次第に増えていきました。どこに行くにも、そのカートは欠かせなくなりました。

そんな中、1月21日に年明けの正月気分も吹き飛ぶような事件が起きました。デイジーが、かなり大量の鼻血を出したのです。犬が鼻血を出すというのは非常に不吉なことであるというのは、飼い主もなんとなく知っており、すぐにかかりつけの獣医さんに連れて行きました。しかし、このときの獣医さんの様子は、少し煮え切らないものでした。どうやら、鼻血の真の原因はどこかにあるようなのですが、そのことを探っても意味がないと思っている様子です。処置も、「あまり効かないかもしれないですが」といいながら、弱めの止血剤の飲み薬を出したのみでした。この後のことを記録として残しておきます。

22日 東京に大雪が降りました。
23日 デイジーは家で2回の大量出血を起こしました。かかりつけの獣医さんは休診日で、雪の残る中を別の獣医さんへ連れて行くと、その待合室でさらに大量出血を起こしてしまいました。
また、このあたりから、デイジーは普通のドッグフードを上手に食べられなくなり、介護食という粉末のフードを練って団子状にして食べさせていました。水もシリンジで与えました。アラジンと違って、デイジーはフードや水を拒否することはありませんでした。
が、鼻血のほうはほぼ1日おきにかなりの量が出るようになり、貧血気味になっていきました。獣医さんに駆け込むことも増えました。
29日 かかりつけの獣医さんにデイジーを預けることになりました。抱きかかえて病院に入るとき、デイジーはがウンチを漏らして飼い主のコートを汚しました。このときも出血はなかなかとめられず、獣医さんは原因を探っても仕方ないというのみでした。この獣医さんにはデイジーが子犬の頃からお世話になっていたのですが、飼い主は思い切って、別の獣医さんに転院することを決意しました。
31日 朝の出血をきっかけとして、デイジーを転院先に連れていくことにしました。
その獣医さんは、老犬で麻酔をかけられないデイジーに対しても、できる限りの最大の努力をして出血の原因を探り、鼻の中の腫瘍を見つけてくれました。
そして、腫瘍をレーザーで焼くという処置も試みようとしてくれました。どうやら腫瘍の位置がよくなかったようで、その治療は不調に終わりましたが、飲み薬の処方も前の獣医さんの時とは変わり、外用薬の止血剤を出してくれるなどできる限りの対処をしてくれました。この外用薬の止血剤は脱脂綿に浸して出血個所を覆うことによって効果を発揮するもので、昼夜を問わずに発生する出血に戦々恐々としていた飼い主の気持ちをかなり落ち着かせてくれました。
このあと、しばらくは鼻血が出なくなり、お散歩もおそるおそる再開できました。


2月4日 朝、デイジーが鼻血を出しましたが、新しくかかった獣医さんの出してくれた外用の止血剤でなんとか止めることができました。また、この日以降、デイジーは鼻血を出さなくなりました。

2017年は大変な年

2016年に14歳を迎えた秋から冬ころまで、デイジーはまだボール投げなどの遊びが好きでよく走っていたと思います。
しかし、2016年の12月に山荘を冬支度して閉めるとき、飼い主は「本当にまた来られるのだろうか」という気分になりました。デイジーの動きが鈍くなり始め、目がぱっちりと開ききらないときがあるなど、老化の兆候が見られ始めたからです。日常的な行動は今まで通りのように見えましたが、何かが明らかに違ってきていました。


こうして不安な幕開けを迎えた2017年、2月から3月にかけてまずデイジーより一足先に飼い主が体調を崩して入院するという騒ぎがありました。幸い事なきをえて退院したのですが、その直後のある朝に、デイジーは突然呼吸が荒くなり、放っておいたら危ない状態に陥ってしまいました。かかりつけの獣医さんに駆け込むと、すぐに入院となりました。そんなことをマネしなくてもいいのに。デイジーはどうやら誤嚥性肺炎を起こしたようです。幸い抗生物質などが奏功して翌日には退院し、さらにその翌日には通常通り散歩にも行けるようになりました。

が、この肺炎をきっかけに、デイジーはときどき膿のような鼻水をたらすようになりました。抗生物質を何種類か変えても、それは治りませんでした。獣医さんは、日頃の歯の手入れが悪いために歯周病が原因になって鼻が悪くなっているのだとおっしゃってましたが、後から思うと、これは鼻の腫瘍といったよくない病気の兆候だったのかもしれません。
日常的な歩行などの動作には、しばらくは影響はありませんでした。4月になると八ケ岳行きも再開し、八ケ岳の自然の中でデイジーは東京にいるよりも元気に見えました。


ただ、何度も歩いた湿性植物園の木道でふらふらとして何度も落下することが多くなり、もうボール投げなどで走ることもなく、ドッグランに入ることもしなくなりました。


9月末に15歳の誕生日を迎えてからのデイジーは、さらに目に見えて老化が進んでいくように感じられました。我が家の犬として15歳を迎えられたのは初めてのことでもあり、まだまだデイジーは元気だと思いたい飼い主は、デイジーが少し飛び跳ねたといえば喜び、デイジーが元気になるシチュエーションを探して再現することに集中していました。たとえばウッドチップの敷かれている遊歩道で足取りが軽くなるようだと思えばそこへ行き、お気に入りの下り坂道では多少走るようだと思えば何度も何度もそこへデイジーを連れて行きました。けれども、デイジーが元気な姿が目立つようになったということは、それ以外の大半の時間はかなりぼんやりと、しんどそうにしていたということでもありました。

この時期、飼い主は八ケ岳から東京へ戻るとき、いつも、もう次は来られないかもしれないと考えていました。
それでも、2017年の1年間、デイジーは奇跡のように八ケ岳へ戻ってくることができていました。しかし、また12月が巡ってきて山荘を閉めるとき、飼い主はデイジーに「次は来年の春にこようね」と声をかけながらも、今度こそもう次はないだうとわかっていました。この時に撮った写真が八ケ岳でのデイジーの最後の姿となりましたが、ともかく2017年という年に、彼女が14歳という壁を越えて、まるまる1年間山についてきてくれたことは神様の贈り物だと思っています。

12月第3週、八ヶ岳から東京に戻ってすぐに彼女は散歩中に歩くのを中断してしまうことが増えて、ときどきペットカートに乗って移動するようになっていきました。

2015年から2016年のデイジー

12歳というシニアな年齢になってから飼い主と新しい関係を築いたデイジーは、非常に飼いやすい家庭犬となりました。
ときどき拾い食いをしてしまうのは相変わらず欠点でしたが、よく言うことをきき、お散歩のときもしっかりと横について歩き、家の中でもほとんどいたずらはしませんでした。若いころと違って、この年代ではトイレの失敗もほとんどしなくなりました。
東京の公園や八ケ岳山麓で、デイジーはのんびりと年をとっていきました。彼女の人生の中でも、特に輝いていた時期だったかもしれません。

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しかし、そんなデイジーも健康状態に黄色信号がともり始めました。アラジンのことがあって、腎不全を示すBUNの数値には敏感になっていた飼い主は、デイジーには半年に1回血液検査を受けさせていましたが、2015年の秋、この数値がアラジンほどではないにしても、やや上がり始めたのです。他の指標などから、獣医さんはそれほど大ごとにはなっていないと判断していましたが、念のためサプリメントなどを飲ませても数値が下がることはなく、彼女が14歳にさしかかった2016年の暮れからは本格的に腎臓の血流を改善するためのお薬、フォルテコールを毎日飲むことになりました。
ドッグランを爆走することもだんだん少なくなり、芝生の上などでうれしそうに背中を地面にこすりつけてはしゃぐ姿も、だんだん見せてくれなくなりました。

デイジーとの新たな生活

アラジンのお葬式が終わって少し気が抜けていた飼い主の心のすきをみすかしたかのように、デイジーはお散歩中に大きな青梅の実を拾い食いして、十日ほども入院することになりました。彼女の拾い食いはよくあることで、大きな柿の実を飲み込み損ねてのどに詰めてしまったり、両親の家で薬や肥料を誤食してしまったり、家のキッチンでネギを拾い食いして、無理やり吐かせたこともありました。しかし、この梅はほんとうに大変な中毒になってしまい、これはアラジンの後を追おうとしているのではないかとまで思わされるほどでした。が、その大事件のあと、彼女の性格は一変しました。なぜかとても扱いやすい良い子に変身したように思います。
アラジンが亡くなるまで、この2頭については兄妹、仲良しの友達のような位置づけでペアとして見ていたのですが、アラジンが不在になるとデイジーの性格がガラリと変わったように思われました。それまでのデイジーは、アラジンを通して人間やほかの犬と接しているようなところがあり、中間管理職のようなアラジンの陰に隠れて自己主張をしていました。それが、いつも飼い主の後にピタッとついて、アイコンタクトをとりながら飼い主の考えを察し、ほかの犬たちともフレンドリーに交流できる犬になったのでした。

飼い主としては、デイジーが子犬の頃から一頭だけで飼育されていたら、どんなにすばらしい家庭犬になっただろうと思わざるを得ませんでした。もちろん、アラジンがいつも遊んでくれる環境はデイジーにとって楽しかったのでしょうけれど、彼女の犬としての才能を全部引き出してはいなかったのではないかと思います。
2014年9月にはデイジーも12歳となり、アラジンとの年の差を考えると、この「新しい犬」と一緒にあと何年暮らせるのだろうかという思いがついよぎったりしてしまいました。
しかし、この頃のデイジーはまだまだボール投げやドッグランでのかけっこが大好きな少女時代と変わらずに元気でした。前後の足全部を振り回すような走り方、跳ね方などもまるで子犬のようで、この子にも老いが訪れるということは信じがたく、できるだけ考えないようにしていました。

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2014年6月、アラジンが虹の橋へ

14歳を迎えて、アラジンはしだいにお散歩の際の歩き方が遅くなり、どこかがダルそうにしていることが多くなりました。ドッグランなどで走り回ることも、ほとんどなくなりました。
それでも、飼い主やデイジーがでかける場所にはかならず一緒に出掛けて、楽しそうにしているように見えました。
2014年の春も、4月、5月と八ケ岳へ出かけていますが、アラジンの八ケ岳行きは5月のゴールデンウィーク明けのときが最後になりました。山荘を閉めて帰るときに、アラジンがじっと家の中を見渡していたのは、なんとなく、もう来られないかもしれないと思ったのかもしれません。


5月11日に八ケ岳から東京に帰り、5月17日には東京で大きな公園に行ったり、はじめて入るドッグカフェへ行ったり。そこでお店の中を興味津々で眺めていました。


そのあと、20日にアラジンとデイジーは獣医さんでフィラリアのチェックをしてもらい、ついでに詳しい血液検査をしてもらうことになりました。この血液検査は、かかりつけの獣医さんでは毎年行っていましたが、その年は特に詳しい検査をしてくれる機関と提携したので、結果は1週間くらい待ってほしいといわれました。
ところが、22日の夕方の散歩の後、アラジンがご飯を食べなくなりました。あの食いしん坊のアラジンがご飯を食べないというのはおおごとになっているということは、素人の飼い主にもよくわかりました。しかも、どうやら水も飲みたくない様子です。
23日、獣医さんに行こうとしていると、先方から電話があって、血液検査の結果が大変だということで検査機関から連絡があった、すぐに連れてきてほしいということでした。行ってみると示されたのは、腎不全を示す尿素窒素(BUN) の値が200を超えているというとんでもない数字でした。
急性なのか、慢性化しているのに気付かなかったのか、なぜ毎年血液検査をしていたのにわからなかったのか、飼い主は混乱しました。
ここで、ひとまずアラジンは入院となりました。その入院は、2日で終わりました。「入院しても症状が改善することはない、あとは、お家で見てあげてください」という理由です。アラジンは、まだ元気でした。家に帰ればデイジーと2頭、庭に出てうれしそうにしていました。

しかし、ご飯を食べず水も飲まないという状態では、体力を保つことはできません。腎不全によって、毒素が体に回ってしまうのも止められません。突然やってきた、この運命的な急展開。アラジンの周りにいきなり一陣の風が吹き、すべてが吹き飛ばされてしまったかのようでした。もう後戻りはできません。
最初はまだまだ元気が残っていたアラジンが、日に日にやせ衰えていくのは見ていられませんでしたが、とにかく最後までみとってやるのが飼い主の責任という考えで、毎日獣医さんに通って皮下輸液の点滴をしてもらいました。デイジーも、点滴を受けているアラジンを心配そうに見つめていました。

そんな生活が、だいたい3週間くらい続いた6月12日の朝、獣医さんは休診日でしたが、いつもよりも1時間ほど遅く病院を開けて点滴をしてもらうという約束になっていました。ところが、アラジンはいつも獣医さんに行っていた時間を少し過ぎたところで力尽きてしまいました。デイジーを連れて短い散歩に出ていた飼い主が家に戻るのを待っていたかのようにして、アラジンは逝きました。

2013年

山荘を持ちながら、結局移住の決断をせずに東京にいたのは老親の世話などがあったという事情が大きいですが、大震災のあとのパニックが収まってみると、東京にはそろっている医療施設などが山にはない、といった周囲の状況を冷静にみられるようになったことも確かでした。
結局のところ、山荘は大災害時などに親兄弟なども一緒に避難する場所だったはずが、ごく普通のセカンドハウスとなっていきました。
アラジンとデイジーも、山行きをかなり楽しんでいたようです。
しかし、そんな生活の中で、アラジンに老いが忍び寄り始めていました。
13歳の半ばを過ぎたころから、やや歩く速さが遅くなり、ドッグランなどでもあまり走り回らなくなってきたのでした。


ホームセンターでも、2頭を連れているところに犬好きの子供がやってきて「若そうにみえるけど、この子たち、もうおじいちゃんとおばあちゃんだよね」などと心配してくれたりするほど、見た目にも老いは現れていたようです。


そうこうするうちに、2013年の11月にアラジンが14歳を迎えました。我が家の犬たちは、それまでみんな14歳で旅立っていったという記憶が、飼い主には重くのしかかってくるようになりました。
しかし、そんなある日、山の山荘の近くの私道でアラジンとデイジーが爆走したことがありました。坂道を駆け下りていく2頭の姿に、まだまだ元気なのかもしれないと安心し、というか、まだまだ元気であってほしいという思いが高まって、飼い主は動画を撮ってSNSなどに公開しました。
また、何を思ったかアラジンが山荘の玄関から庭に飛び出して、庭を思い切り走り回った日もありました。何周も何周も庭を全力で疾走し、近くの小川を見下ろせる場所で、「あんなに広い世界があるんだ」といったような顔つきでうれしそうにしていた姿が目に焼き付いています。その姿はまるで映画「タイタニック」で船のへさきから広い海を見つめているジャックとローズのようでもありましたし、4歳の秋に千葉のペンションで夜通し駆け回った時の元気な姿をほうふつとさせました。

山荘生活

2011年の秋から、飼い主は八ケ岳南麓の小さな山荘を個人的な避難所のつもりで使い始めました。
あとから冷静になって思えば、どこにいようと地震はやってきます。また、この山の中の山荘が東京よりも安全とはいえません。それは、その後の熊本地震での阿蘇山別荘地の被害などを考えれば明らかです。が、この時点では危険な都内から逃れる場所という位置づけでこの山荘を考えていました。
それが、2012年、2013年と年を重ねるにつれて、だんだんと八ケ岳山麓の生活は、災害からの避難場所というよりは、仕事のストレスからの避難場所のような位置づけに変わっていきました。アラジンやデイジーを連れて風光明媚な山麓の観光スポットを回ることも多くなりました。人間は喉元過ぎれば熱さを忘れる、ということの良い例だと思います。
そんな生活をつづけながら、アラジンは12歳、13歳と年を重ねていきました。先代犬のゴールデンレトリバーはすでに寝たきり状態になっていた年齢です。飼い主は山荘の生活を楽しみながらも、だんだんとタイマーが時を刻んですすんでいくのを感じていました。アラジンとデイジーの何気ない日常までも写真やビデオに残しておきたいという意識が強くなり、PCにもiPhoneにも、このころから膨大な数の写真、ビデオデータが残っています。
ところが、ある日飼い主は散歩中、アラジンの目の近くに小さなおできができたのに気付きました。そのおできが、どうみても普通の脂肪瘤などではなさそうに見えて、飼い主はその足でいつものかかりつけ獣医さんへ連れて行きました。そして、そのままアラジンを預けておできを切除してもらったところ、このおできがメラノーマであることがわかりました。それまでも、エプリスという良性の腫瘍などにかかったことはありましたが、悪性の腫瘍だったのです。
このときの切除手術で悪い組織は全部とったけれども、再発がこわいので、ということでアラジンは神奈川にある大学病院に通うことになりました。
けれど、8か月という経過観察期間を経ても再発はなく、幸いこのメラノーマは完治とみなされました。
その間も、八ケ岳山麓通いは続きましたが、元気だとばかり思っていた2頭の健康にも、そろそろ黄色信号がともってきたように思われました。

2011年の春

都内の梅林が満開になった3月、アラジンとデイジーは毎朝のようにお散歩してはカフェに立ち寄っていました。
3月11日も、そんないつもと変わらない朝でした。そして、午後は少し早めにお散歩を済ませて、飼い主の仕事場で昼寝をしていた2頭でした。

あの揺れの間、2頭をベランダに出してみたり、周りに家具のない部屋に誘導したりしながら飼い主が考えたことは、自分は自営業に転職して家にいられたけれど、犬をおいて仕事に出ている人たちはどんなに心配だろうということでした。しかし、後になってこの大災害の全体が明らかになってくると、一緒に家にいたとしても、もしもこの犬たちを連れて自分が津波などに遭遇したら、自分にいったい何ができただろうかという無力感に襲われました。
その後の原発事故の恐怖も忘れられません。東京の水道水が汚染されてミネラルウォーターが市場から消え去った時、2頭に水道水を与えることは大変な罪悪感でした。毒を与えているような気分になったのを覚えています。しかし、人間の子どもたちなら優先的にミネラルウォーターも売ってもらえるのでしょうけれど、シニアな飼い主とシニアな犬たちに同情してくれる人もいるはずはなく、ともかく水道水は活性炭フィルターでろ過してから使うというほかはありませんでした。その後、ミネラルウォーターが世の中に出回り始めてからは、もう必要もないにもかかわらず、ペットボトルを買い込んでとても安心したことを覚えています。飼い主としては、これはかなりのトラウマになりました。2頭の活発な犬を抱えて東京都内の避難所にお世話になるなんて、とても無理そうだということもよく考えました。
そして、この地震の後、飼い主は地方への移住を考えて、とりあえず軽井沢や清里の周辺を探し回りました。

詳しい事情は省きますが、結局、ガイガーカウンターなどをもって歩いた結果として、小淵沢周辺の小さな山小屋を買い取ることになりました。
こうして、2011年春以降の2頭の生活は、それまでの10年間とは全然違うものになっていきました。
しかし、犬というものはこんな危機的な状況にあっても、空が青くて土の香りが気持ち良ければうれしくてはしゃぎまわるという性格をしています。
アラジン、デイジーの写真はただのノンキな犬たちのように見えて、この年がこんなに災難に満ちた年だったということは伝わってこないかもしれません。
2頭が写っている写真のカフェなどは、その後関東でのすべての店舗を撤収してしまったりもしたようですし、世の中は大きく変わりつつあったのですが。